2013年7月5日金曜日

いつか見た慈悲深さの中に。

薄情さは心の未熟さだと思う。
また、慈悲深さは成熟さと同意義で、信念は残酷さに繋がっていくものと思う。


薄情さと慈悲深さと信念が入り交じったものが、人情であると思うが
環境次第で折れそうになる心もまた、未熟さゆえのことなんだろうか。

向き合うことに臆病になってると感じる昨今の若い人達。
なんて書くと自分より先輩の人達に「お前が言うな」なんて小言を貰いそうで怖いが。

自分より若い人達のあまりに未熟で小賢しくて醜くて、無作法で小さな気持ちを目の当たりにした時、そこから去りたい気持ちで一杯になる。

はっきり言って、昔の自分を見てるようで、とても恥ずかしくなる。
自分の都合の良い方向にしか行こうとしない輩だらけだなって、失念してしまうことも多々あって、こっちの方が心労重なってガックリ来ることもシバシバ。
だけど、自分がそうだった時に色んな心ある対応をしてくれた人達みたく、今の自分が対応出来ているか、疑問だ。

おそらく、求めることが多すぎちゃ駄目なんだろうし、そこまで他人に入れ籠む必要もないのかもしれないけど。
最近では無関心でいれることも覚えてしまった自分に、これで良いのだろうか?
なんてちょっとだけ自分に猜疑の気持ちを持って過ごしたりもしてる。



どれだけ他人に入れこんだって無駄にしかならない時は沢山あり、その時の失念の気持ちは、自分だけでどうにかなるものでなくて(お節介ではなくて心で思ってるだけで態度にはおくびにも出してないつもりだが)、相手の未熟さにも起因することだから、結局は長い気持ちで相手を信じることでしか解決出来ないことなんだってこと。
上から物を申すことに抵抗あるけど、確実に未熟さを見抜ける時ってあるでしょう。

時が解決してくれることを、むやみに弄り倒すものではない。

そう思います。



成熟にはそれぞれの時間や機会、栄養や休暇が要ることだと思うから。
偏屈なことばかり書くけど、普段からこんなこと考えてるわけじゃないし、もっと単純で笑いたがりな気持ちで泣きたくなってくるくらいの自分だけど、そうやって今まで支えてくれた大事な人にありがとうと伝えたい。
そういう気持ちを育んでくれた全てのものに感謝する。

いつからか、残酷なだけじゃなくなった自分を、少し笑って許してやりたいです。


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