今に始まったことじゃないけれど、他人の感情をそのまま率直に刺激として受け入れて、その刺激にいちいち反応している自分が、どれだけ子供なのかを嫌って程自分に思い知った最近。
刺激に反応するだけの心。気持ち。言葉。衝動。
正に子供。
That`s Child。
大人になることと、衝動を抑えることとはまるで意味合いが違う。
相手の気持ちに寄り添ったりする力や、理解しようとする心、歩み寄りの精神をほんの少しだけでも持とうとすることが出来れば、それは「我慢」でなくて、結局自分に「納得」っていう救いになって返ってくる。
「諦め」でも「嫌気」でもなくて。
相手の気持ちに歩み寄れる力。
どこを斬っても『自分』という金太郎飴みたいな我しか見えない己の狭量さ。
分かってみれば、驚くほど納得いける。
納得いけないってのは、結局あまりに自分しか見えてないからなのかも。
だから、くどいくらい相手に突っかかる。
率直に自分のあまりの未熟っぷりを嘆く記録だけれど、昨日まで依存していたものや、寄り掛かっていたように思えたことも、結局視点を変えれば「自分」しか視えていなかったからこその苦悩や苦痛。
そういう意味で『大人』になるってことは、我慢でも抑制でもなくて、自分への救いとしての他人への歩み寄り、なのだと思った。それは一種、諦めにも似てる。
そこを「納得」出来ないうちは子供。
気持ち悪い。
「正しさ」も「間違い」も、自分だけのもの。
歩み寄って理解して健気になって、初めて他人を理解したり納得出来たりするもの。
自分とは醜さだと思う。
健気になって、初めて稚拙さを知り、大人であることを知るのかもね。
刺激された通りに反応するなんて、挑発に乗ったチンピラ同様。
気持ち悪っ
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