2012年10月15日月曜日

pieces.

ずっと笑ってたいとか。
素直な気持ちでいたいとか。

そう思ってるのに、ちょっとしたことや、ちょっとの嫌がらせに腹を立てて、そう想ってたことを簡単に忘れてしまう。
それで、自分が抱く想いとは真逆の気持ちに心が占領されて、その時々で感じた苛立ちや汚い気持ちをぶちまけて、ちっとも自分の中で消化しきれない辛さに変わる。

それは、自分の中の悪意に負けてしまうってこと。
それは、こう在りたいと願う自分の『芯』を見失うこと。
それは、描いてた未来を糸も簡単に捨ててしまうということ。


誰かが何か面白くないことや、自分の意図にそぐわないことをしたからといって、自分の理想を捨てたり忘れたりして、自分自身が怒りに駆られて失敗して良いという道理なんて、これっぽっちもないと思う。

自分さえ、心の中で納得出来る『芯』を見失なわなきゃさえすれば、それに納得出来てる限りは、きっとどんなことにも素直でいれるし、いたずらに人を傷付けるようなことをしたりは、きっとしないと思う。



だから、何かに躓いたり苛立ちや納得のいかない事があったら。
その都度、「自分はこう在りたかったよな」って、思い返してさえすれば、少なくともあとで後悔するような事態にはならない気もするし、そう思い返すことが唯一、自分を平常心だとか変に凝り固まってない気持ちでいれる為の術に成り得るのかもしれないな、って、思った。

それが、自分にとって「芯」があるということなのかもしれない。




誰かが何をしても、間違いやミスを犯したとしても、自分が「芯」を見失って、自分さえも見失って良いなんて道理は、微塵もない。


だから、〈私はこう在りたいと願ってる〉。
それだけで事は足りるのかもしれないと思う。


こういう想いでいたい、これをこう伝える気持ちでいたい、
誰かに何をされても、それを忘れなければ、良いんだと思う。




誰かを傷つけることが望みじゃないし。
自分だけふんぞり返っていたいわけでもない。

理想に障害が現れても、「こう願う」って気持ちを自分の中で忘れずに、怒りや苛立ちが訪れる度に、「こう願ってた自分」を思い出すことさえ忘れずにいれば、素直な気持ちと向き合えるんだと思う。
素直でさえいれれば、分かち合うことに向き合えると思うし、誰かの痛みを無視してまで自分の我やプライドや正義を押し売りしたりして、嫌な気持ちに満たされることは、少なくなれるのかもしれない。



自分にとっての「芯」を見失わない。
いつも願ってた正しいと納得した気持ちを、負の感情で充満させない。

色んな場面で言えることなのかも。


愛と憎を自分の中に観た時に、どちらが本物なのかを問い正せば、絶対に愛を取る筈。
それを、稀に訪れる僧に占領されて、嫌な想いをするのは、誰だって良い気がしないと思う。



自分がどう願って、どういたいのか。
どんな負の感情が襲ってきても、
それを忘れずに、自分の納得出来てる「芯」を忘れずにいれば、
きっと良い未来が待ってる。




自分探しの答えは、誰かと向き合うことで得られることなのかもしれないね。
今までの色んなことに、感謝。
そして、負で覆われた過去と自分と、大切に出来なかった言葉達に、謝罪。


ありがとうと、ごめんね。


どんなに歳を取ったって、三つ子の魂は百まで続く。
どんな大層なことを言ってたって
後ろめたさや、なんか納得いってない様なモヤモヤ感があるなら、その都度向き合って納得いく気持ちと出会わないと、気付かぬうちにグロテスクな心に支配されていくのかもしれないね。

人を恐れたり、悲しさで満ちた人生にはしたくないから。

自分が笑っていたい未来と、真っ直ぐな気持ちでいつもいれる人生で在れるように。
何を願ってる自分がいたのか、嫌なときはそれを思い出そう。


分かち合えないものを、分からせるでなく
「自分はこう在りたい」と願ってる、そこから発信出来るものだったら、結果はどうあれ、納得のいく結果には繋がっていくかもしれないから。

泣きたいくらいそう在りたい。

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