2012年4月30日月曜日

Any.

自分自身、色んなことに真剣に取り組んでたつもりで、必死で本質を見極めようとしたり、「本当」のことがなんなのかを知ることに躍起になってきたけど

色んな人と関わったり、これだ!って思える応えを見つけては自分に納得したりそれを発信することで前に進めてる気がしてた。

けど、最近、思うことがあって。

弱さも強さも、人が生きてく上で、そのどちらが「本当」かなんて、それこそそのどちらかを否定することこそが「嘘」なわけで、言ってしまえば、「嘘」と「真実」その両方が「本当」なんだね、ってなんとなく思った。

その全てが人の真実なんだと、この歳になって思う。笑


答えはひとつじゃないってゆーか、全部本当なんだよね。

そう思いながら、誰かを否定したり、ひとつの真実を求めたり、、でもそれも間違いじゃないんだろうな。

無造作の中にある意志、みたいなw


かなり、漠然としてるし、なんでこんなこと書いたのかも、自分でわかってないけど、ただ、否定したり、嘘から真を、真からは嘘を、ってなってる自分に、少しの馬鹿らしさと、それを繰り返してきた今までに、少しの愛おしさを感じる今日この頃。

だから、自分がいるこの現状とか、それに携わってきた全ての人達に感謝と、その馬鹿らしさこそが、なんてゆーか、そこに何かがあるわけじゃないけれど、答えがなけりゃ進めないってのもまた、違うかなって。。

全てがまっさらで、全てが真実だった子供の頃みたいに、大人になった今だからこそ、馬鹿みたいに進む正直さ、真っ直ぐさみたいなものともう一度向き合ってみるのも面白いかもしんないなって、そこには何んにもないかもしんないけど、そういう馬鹿っぽさは少なくとも今の自分にないし、そんな風に思える今が自分の「真実」で、それは明日になって「嘘」になるかもしれないし、その移ろい易さを、少しは許しても良いんじゃないだろうか、、って都合の良い様に思ってみました。笑


結局、ONEもANYも、間違いじゃなくて。
真実真実って、思い込まず、嘘もあって真実もあって、それを受け入れる心の余裕こそが、過去の自分を否定せずに人生を楽しむ上でも大切なのかも。

違和感があるとすれば、それは、身勝手さ。
身勝手さも、立場や状況次第で主観として移ろっていくもんだとは思うけど、そこだけは常に自分の中に忘れずに持っていて、自分の弱さには向き合っていきたいと思う。


何が言いたいのか、いつものことだけど、たまにこうしてツラツラとひたすら書き殴りたい衝動に駆られます。





【追記】

上の長ったらしい文章を一言でいうと、

anyでもoneでもなくて、全部のことは、AnyOneなんだってこと。

その全てが平凡じゃなくて、どれもが特別な答えであって、真実なんだってことが言いたかったんだと思います。笑

2012年4月26日木曜日

どうも、ご無沙汰です。

かなり放置してましたね、わっためがす。笑

今日は休みで、久々にやることもないので、BlogでもUPしますよん♪
暇人カムバックです。

この休みにでも、去年購入したiPadのメールアドレス等、知人全てに送信しようかと思っております。
なんせ、docomoのBlackBerryからデータ引き継げず、全て手打ちで入力してたもんで、流石にそんな労力残すほどは暇してなかったってゆーw

それもこれも、タッチパネルだから特にやりづらいってことで、今はMacがあるから、キーボードで入力すれば、夕方頃には終わるかと思います。


最近、思うことがあって。。

地震関連でもあるんだけど、よくニュースとかで政治家が、
「万が一」って言葉を口にします。
万が一の事態に備えて、、とかね。

備えるって意味で使う分には、特に何も感じないけれど、個人的には「万が一」って言葉には当事者意識を欠いたニュアンスがある気がして、あまり好ましい言葉ではないかなって思ってます。
だって、もしその「万が一」が発生した場合、それはただひたすらにひとつの真実であって、そこから絶対逃げることの出来ない『現実』が、容赦なく横たわってくると思います。
「万が一」って言葉を使うことで、不安を和らげようとしてるんだろうか?
それはある意味、自己欺瞞でもあるのかなぁっても、思います。

【運命】は、個人的には【結果】だと思います。
イコールで結んでしまっても構わないと思ってます。
色んな過程を踏んで、それが今ある【結果】に繋がってきてる。
だから、万が一もなにも、例えば自分の努力でどうにかなるものと違うなら、それは「わからない」わけであって、人的なものでは不足の事態などはいくらでも防ぎようがあることだと思います。
金銭的なものとか、手続き的な問題もあるけどさ。

今やってる原発の再稼働の話とか、明らかに断層の「万が一」に逃げてる気がして。。
言いたいことをまとめると、、

結果からしてみたら、「万が一」もクソもないということ。

そんな言葉を使うこと自体、当事者意識に欠けてるからこそ出る言葉なんだと思う。
たとえ天災絡みなことでも。
可能性の芽を摘むことが、例えば今回の地震問題に関しては政府の責任でもあって、うちらにはうちらなりの、仕事に対する責任、不安要素を取り除くべく努力し続けるってことが責任を全うすることなんだと思う。
(今、地震問題に携わってる人達が努力してない、と言うわけでなくて、「万が一」って言葉を使う役人とかに対して抱いた違和感を言ってます)

ちょっとね、別にそれほど怒りとか湧いてるわけでもなく、「万が一」って言葉を考えるって感じで、深く考察したわけでもなく綴ってます。

主観では、【運命】=【結果】で、
【結果】は【過程】から紡がれる。

【過程】で予期しきれないことも確かにあるし、天災が絡むとそれもしょうがないけど、
「万が一にもありません」とか、もしその【万が一】が発生した場合、その時の【結果】を踏まえてない発言は、いささか無責任な印象を残すから、やめて欲しいなって想いを、綴ってみました。

【結果】は、無情な程に現実として伸し掛ってくるから。。


誰も、責めようとはしてないし、常にそんな心構えでいろなんて、人様には言えないけども。

なんか、【運命】をもやもやな感じで抱いてたくないから、人に任せず自分の力でもぎ取るくらいの意気込みで、人生を実りあるものにしたいから、【万が一】って使うことで現実に逃げたくない想いを刻みました♪


長い!

そして、

いまいちまとまってない!


ご免遊ばせ!